小笠北小の残っているアルバムの中から、いくつか写真を選びました。
一番古いものは明治36年(1903年)のものがありました。
最小限の説明にしました。実際に写真を見て、自分で思いを馳せてください。
                                          2005.5.2
年号 西暦 おもなできごと
明治
(めいじ)
6
8
12
19
20
21
25

36
41
1873
1875
1879
1886
1887
1888
1892

1903
1908
下平川学校ができる。
下平川学校・大嶺(たいれい)学校・新民学校・河東学校に分かれる。
下平川学校・嶺田学校の2校となる。校舎はお寺を使い、学年は4年生まで。
修道(しゅうどう)小学校となる。本校は嶺田の徳蔵寺、分校は下平川の好運寺。
嶺田尋常(じんじょう)小学校となる。
今の場所(嶺田59番地)に校舎を建てる。平田尋常小学校となる。
平田尋常高等小学校となる。校門の写真
尋常科4年、高等科2年となる。
運動場を広げ、校舎を増やす。(児童数415人) 明治36年の高等科生徒(現存最古)
尋常科6年、高等科2年となる。
 明治42年の教員 明治44年の尋常科児童
大正
(たいしょう)
1

7
13
1912

1918
1924
校舎を増やす。(児童数523人)
 大正2年の児童 大正3年の教員 大正3年の児童
校舎を増やす。学校に電話が入る。 大正7年撮影の写真
校舎を増やす。運動場を広げる。(児童数685人)
昭和
(しょうわ)

8
10


16
19


20
22

29
31
32
35

38
40

43

48
50

54

57

1933
1935


1941
1944


1945
1947

1954
1956
1957
1960

1963
1965

1968

1973
1975

1979

1982
昭和元年の男子児童 昭和元年の女子児童 昭和2年の児童と教員
運動場を広げる。昭和8年撮影運動場と校舎 昭和8年の児童 昭和8年の教員
運動場を広げる。(児童数814人)講堂ができる。校舎を増やす。
昭和10年撮影講堂と校舎 昭和10年の児童
昭和13年の児童

平田村国民学校となる。(児童数825人)
東南海地震で校舎がつぶれ、児童2名が亡くなる。
戦争が激しくなり、勤労(きんろう)作業ばかりで学習があまりできなかった。
戦時中の学校で 出征する教員を送る 
8月15日終戦
平田村立平田小学校となり、小学校と中学校に分かれる。
昭和26年の児童 昭和27年の児童
小笠町立小笠北小学校となる。(児童数672人) 校舎の写真
給食室と2階建て校舎ができる。
給食が始まる。大石地区が学区となる。
テレビを初めて買い、テレビを見る教室をつくる。
昭和36年撮影→授業風景 運動会 児童写真
プールができる。 修学旅行の羽田空港にて
校歌ができる。
昭和41年の中庭(現ビオトープ)にて
文部省指定の道徳研究発表会を開く。昭和43年の児童
昭和45年の児童  昭和47年の児童
学校の敷地を広げる。給食センターができる。
体育館ができる。用務員室ができる。
昭和52年体育館にて
校舎が新しくできる。(児童数549人)昭和54年の児童
昭和55年の児童 昭和56年の児童
文部省指定の道徳研究発表会を開く。(児童数555人)昭和57年の児童
平成
(へいせい)
1
3
4
5
6
8

12
1989
1991
1992
1993
1994
1996

2000
県指定の学習指導研究発表会を開く。
新しいプールができる。
中庭「なかよし広場」ができる。
多目的教室ができる。
県指定「学校、家庭、地域連携」の研究発表会を開く。(児童数579人)
障害者用トイレ、スロープ、エレベータができる。
コンピュータ室ができる。
ビオトープ(ゆめトープ)が完成する。(児童数488人)